今日は、2校時に1年生の道徳の授業を参観に行くことになっていたので、そのことをブログに書きます。2日連続1年生ネタになりますがお許しを…。
高学年の子どもたちや中学生に、「道徳の勉強は好きですか?」と聞くと、結構な割合で「あんまり好きではない。」と返ってきます。「どうして、きらい?」と聞いて、「だって…分かり切っていることを、わざわざ時間かけてやるから…。」と返ってきたとしたなら、残念ながらそれは、その子が今まで受けてきた授業が「ちゃんとした道徳」ではなかったということ…。道徳の授業がまずかったというしかないと思っています。
以前ブログに書いた気もしますが、道徳という勉強の目的は、「よく生きるための基盤となる道徳性を養うため,道徳的諸価値についての理解を基に,自己を見つめ,物事を多面的・多角的に考え,自己の生き方についての考えを深める学習を通して,道徳的な判断力,心情,実践意欲と態度を育てる。」です。「道徳的価値」を学ぶ勉強ではなく、すでに分かっている「道徳的価値」についてより深く考え、自分の生き方に生かす勉強です。教える教師側にちゃんとした「授業力(指導力)」と「子どもたちとの心の交流」がないと、なかなかこういう勉強にはなりません。
今日の1年生の道徳は、「ひつじかいのこども」というお話を使って、「正直・誠実」=「嘘をついてはいけない」という道徳的価値について考えを深めていきます。
「嘘をつくことは悪いこと」…1年生だって、そんなことはあたりまえにわかっています。道徳の授業では、この「わかっていること」を改めてじっくりと深く考えていきます。つまり、お話の人物の心情を考えていくことで、「どうして嘘はいけないのか。」「嘘をつくとどんなことがおこるのか。」「嘘をつかないことでどんないいことがあるのか。」などをどんどん掘り下げていきます。そうすることで、今まで単なるお題目だった「嘘をついてはいけない」が、「わかってるけど、なかなかそうできない人の気持ち(弱さ)があるよな…。だれだって逃げたい時や、調子に乗ってしまう時があるもの…。」と人間の弱さに共感したり、「でもやっぱり嘘をつくことは、結局は信用を失うことになるから、余計に自分の値打ちを下げることになる…。」と、「自分ごと」として正面から向き合ったりしながら、そんな思いの積み重ねが、自分の生き方を少しずつ決めることにつながっていきます。
「ひつじかいのこども」のお話は、誰でも知っているお話で、いわゆる「オオカミが出た~!」とほらを吹いて、村の大人たちを振り回すお話で、最後には本当にオオカミが出たのに、誰も助けてくれなかったというお話です。子どもたちは「村の大人たち」になったつもりで気持ちを一生懸命考えます。道徳では「〇〇さんだったら、どうする?どう思う?」とは質問しません。すでに道徳的な価値はわかっているのですから、「あなただったらどう思う?」と聞かれて、マイナスな心情(弱い部分)をさらけ出せるほど、人は強くありません。だからあくまで「村の大人たちはどう思ったんかなあ?」と問います。そうすることで、誰もが持つマイナスな心情も正直に出せます。答えているのは「村の大人たちの気持ち」ですが、その気持ちには「子どもたちの気持ち」が反映されているのです。
1年生はまだ「多くの言葉」を持ちませんから、気持ちを言葉に表すことはまだまだ苦手です。だから自分の気持ちの「位置」を黒板に名札を貼ることで表したり、「動作化」といって、登場人物になり切って演じたりします。そんな子どもたちの「動作」や「動き」を的確にとらえて、「〇〇さんは今どうして、走ったんかな?」とか「名札貼るのを迷ってたね…何と何で迷ったん?」などと、問い直すことで子どもたちの心情を拾い出していきます。この辺のところが教師の「プロの技」の部分です。T先生は、子どもたちの何気ない「つぶやき」や「動き」を確実に拾い、全体に広げていき、村の大人たちの心情の変化を子どもたちと共有していきます。T先生、さすが!お見事でした!
子どもたちの振り返りの言葉を見ると、「嘘をつくのは悪いこと」という道徳的価値を深く考え、「嘘をつくと、信じてもらえなくなる。」とか「ほんとうの時(いざという時)、来てくれない(助けてもらえない)から嘘はだめ。」という具合に、自分ごととして考えられるようになっていました。
「道徳の授業は、好きとはいえないけど、とっても大事な勉強だと思う…。」子どもたちがそう言ってくれるように、我々(教師)が腕を磨かないといけません。