もちろん、たまたまなのですが、私(校長)は「超お天気男」です。校長になって、大きな行事(修学旅行、運動会)で雨に降られたことはありません。今回の修学旅行も2日とも降られることなく、楽しい修学旅行になり…正直ほっとしています。
今回の修学旅行、6年生78名全員で楽しめて、だれもケガすることなく、病院や救護室にお世話になることもなく、みんな無事に元気に帰ってこられたことが何よりもよかったと思います。たくさんの準備いただいた保護者の皆様をはじめ、この修学旅行に関わってくださったすべての方々に深く感謝申しあげます。
さて、修学旅行1日目は、奈良歴史探訪の旅でした。午前中は平城宮跡、午後は奈良公園(東大寺、若草山等)を巡りました。710年の平城京遷都から、752年の「大仏開眼供養」まで、奈良の都が栄えた時代に想いを馳せました。当時、国の体制を整え栄えていた唐(中国)の条里制の都をモデルに造られた平城京の都と平城宮。都のメインストリートは「朱雀大路」、道幅70m、南北に3.7km伸びています。平城京の北に造られた平城宮(皇居+永田町っていうイメージ)の入口が「朱雀門」。
世界遺産になっているのは平城宮跡だけなので、平城京全体を望むことはできませんが、天平みはらし館で見せてもらったVRシアターでその全貌を体感することができました。実際に目の前にある朱雀門や大極殿、朱雀大路などが、平城京の風景とつながりました。
私(校長)がこの歳になって、改めて感動したのは、当時平城宮の官僚だった阿倍仲麻呂の有名な歌です。
「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出し月かも」
【現代語訳】
天を仰いではるか遠くを眺めれば、月が出ている。あの月は私の故郷である、春日の三笠山に出ていたのと全く同じ月なのだなぁ…。
阿倍仲麻呂は、日本をもっともっと立派な国にするために、留学生として遣唐使船に乗り、唐(中国)へ向かいます。
唐でその才能を認められた仲麻呂は、唐の皇帝に長く仕えることになり、とうとう日本へ帰国することなく、唐でその一生を終えます。最後の最後まで、故郷(日本)を想っていた仲麻呂の心情にぐっときます。
それにしても、世界遺産の「平城宮跡遺跡」のど真ん中を、近鉄電車が走っていく風景が何とも言えず不思議な感じがしていました。
午後は、奈良公園に移動して、「東大寺大仏殿」→「廬舎那仏(大仏様)」→「南大門の仁王様(阿形・吽形)」→「鐘楼」→「二月堂」→「校倉倉庫」→「若草山」と班別にウォークラリーをしながら回りました。特に大仏殿は、たくさんの人でごった返していましたが、なんとか大仏様を拝むことができました。
大仏様は、座高14.98m、顔の長さは4.13m、銅座の高さは3.04mもあります。高さは、約18m、重量は約250tにおよびます。どうしてこんなに大きな大仏を造ったのかといえば、お釈迦様の身長を10倍することで、無限大の宇宙を表現したと考えられているそうです。正式な名前は「盧舎那仏(るしゃなぶつ)」です。
奈良時代は、政治的な争いや干ばつ、飢饉、凶作、大地震、度重なる天然痘の大流行などで苦しい時代でした。東大寺はそんな時代に聖武天皇が、仏教の考えと国を守るために建てたお寺です。そのため、743年に聖武天皇が「生きとし生けるものが共に栄えること」を願い、「大仏造立の詔」を発して、大仏がつくられました。大仏と大仏殿の造立には、なんと当時の人口の約半分である約260万人の人々が協力したと言われています。
聖武天皇や行基の願いのもと、まさに国中の人々が協力して造り上げた「大仏様」…その大きさ以上の、たくさんの人々の思いが込められているのだと感じます。そんな平城京の都も長くは続かず、794年には京都(平安京)に遷都されてしまいます。歴史遺産に触れるたびに、歴史の奥深さや儚さを感じます。悠久の歴史に触れて、子どもたちはどんな思いをもってくれたでしょうか…。