今日は久しぶりに理科室に「実験」の授業を見に行きました。学習していたのは5年生。「水に溶けたものは、どうやって取り出すのか?」という課題に対しての実験をやっていました。
理科という教科は、学年が上がるにつれて「好き・きらい」が結構分かれてくる教科かなと思っています。「理科ばなれ」という言葉もよく聞きますから、現代の子どもたちは、理科に魅力を感じなくなっている傾向があるのかもしれません。
子どもたちが生まれて初めて「知的好奇心」を抱くのが何歳くらいなのか分かりませんが、初めて「なぜ?」という疑問を抱くのは、間違いなく身の回りの「理科的な事象」だったはずです。「なぜ太陽はのぼる?」、「雨ってどこから降るの?」、「水の入ったバケツを振り回しても水がこぼれない?」、「青虫はどうやって全く姿かたちの違うチョウになるのか?」などなど、遊びや生活の中で「なぜ?」が生まれ、何でもかんでも「なぜ〇〇なの?」と質問攻めを食らう時期があります。その「なぜ?」に丁寧に付き合ってあげることが、子どもの探求心や思考力を育てることになるということもよく聞きます。理科はまさに「なぜ?」を追求する学習であり、いろんな「なぜ?」の答え=現象の起こる訳や根拠、理屈や道理を学ぶ…まさに「理」を学ぶわけです。
小学校理科の「実験」の学習は、基本的な実験器具の正しい名前や使い方を理解することも大切で、それが中学校や高校の理科につながっていきます。だから先生たちの説明や話の中で、きちんとした用語を使うことはとても大事で、「この棒で、入れ物の液をまぜまぜして…」なんていいかげんな説明は許されません。令和4年度の全国学力・学習状況調査の理科の問題で、「メスシリンダー」の名称を答える問題が出題されましたが、器具を見て「メスシリンダー」と答えられなかった子どもたちがたくさんいたことが話題になりました。これはそもそも教師側が意識して「正しい用語」を用いていないことも大きな理由なのではと私は思いました。「理」を学ぶ学問なのに、「なんとなく…」や「適当に…」、「だいたいで…」という思考はいただけません。
漏斗(ろうと)を使って濾過(ろか)をする時、ガラス棒をつたわせて液体を注ぐことにも、漏斗の先端をビーカーの内側に沿わせることにも、きちんと理由があります。ガラス棒につたわせて注ぐのは、液はねの防止、一度に液を入れすぎて液がろ紙からあふれ出ることを防ぐためですし、漏斗の先端を内壁に沿わせるのは、ポタンポタンとろ液がはねることを防ぎ、またろ液が途絶えることなく流れ落ちることによりろ過速度が上昇させるためです。すべてに「理」があり、それを知るたびに「なるほどな~」と納得するところにも理科の面白さがるような気がします。
ところで、理科の実験の風景も私(校長)が担任をしていたころと比べると大きく様変わりしています。一番大きな変化は、熱源として「アルコールランプ」や「ガスバーナー」を使わなくなったこと。今はほとんど「カセットコンロ」を使用するようになりました。もちろん「より安全に、より簡単に」という理由からですが、そのせいで子どもたちが「マッチ」を使うことはほとんどなくなりました。今でも4年生で少しだけアルコールランプを使うことがあるそうですが、その機会やマッチを擦る経験はうんと減りました。それなのに6年生の理科では「ろうそくにマッチで火をつける」という場面があり、6年生になって初めてマッチを使うことになり、まずマッチを擦る練習からする…といったようなおかしなことにもなっています。
子どもたちの「安心・安全」は、学校教育の一番大事なところの「一丁目一番地」ですが、子どもたちから「危険」を取り去るだけでなく、「危険であることを知る」、「自分で危険が回避できる」という学習も大事にすべきだろうと考えています。
さあ、今日の実験で子どもたちは、食塩やミョウバンの水溶液を蒸発させて、無事に食塩やミョウバンを取り出せたのでしょうか。子どもたちを見ていて、自分が小学校の時、できるだけ大きくて、形のきれいな「塩の結晶」を作るのに夢中になっていたのを思い出しました。
最後に、理科室の児童用の椅子が、必ず「丸椅子」になっていることにも「理」があります。「背もたれがない」ということに意味があります。危険を伴う学習ですから、いざという時にさっと後ろに逃げられるように、そして避難しやすいようにという理由です。また、テーブルの下に完全に格納できて、すっきりした環境の中で実験等ができるようにするためです。調理室も同じ理由で、背もたれのない椅子になっています。すべて「理」に適っています。