昨日までの大雪はちょっと休憩に入り、今朝は雪かきをしないで済みました。それでも子どもたちは、まだまだ雪で遊ぶ気満々です。みんな「それ用」の格好で登校してきました。一通り、子どもたちの登校を迎え終えた後、いつものように下駄箱の靴の整頓に入るわけですが、昨日今日と大変感心しているのが、1年生の下駄箱です。入れにくい「長靴」を、それぞれに工夫しながらきちんと下駄箱に収めています。私(校長)が整理し直す必要は全くありません。1年生なのに、しっかりと「地に足がついている」この状況がとても嬉しいです。

さて、今週から、今まで学校のリーダーとして全校を引っ張り、まとめてくれた6年生に感謝の気持ちを込めて、卒業をお祝いする「卒業お祝い週間」の取組が始まっています。「お祝い放送」では、給食の放送で各学年から6年生へのビデオメッセージを流します。また、「お祝いの寄せ書き」は6年生へのお祝いの言葉を学級ごとに書き、6年生教室前廊下に掲示します。そしてさらに「なかよし遊び」では各学年が6年生を遊びに招待して昼休みに一緒に遊ぶというような取組をします。
最終日の2月28日(金)には、卒業をお祝いするとともに、それぞれの学年が自分たちの一年間の成長を表現、実感するための「6年生を送る会」を開催します。子どもたちの一年間の成長を見ていただく今年度最後の参観の機会になります。多くの保護者の皆様に参観いただけると嬉しいです。


昨日早速、給食の時間に、5年生による「卒業お祝いメッセージ」が放送されました。5-1も5-2もそれぞれ工夫を凝らしたメッセージ放送で、とても楽しむことができました。また、昼休みには、早速5年生と6年生との「なかよし遊び」がありました。
高学年の遊びですから、私(校長)は勝手に「ガチのドッジボール対決」とか「大縄8の字跳び対決」みたいなものを想像していて、これから最高学年になろうとする5年生の「意気込み」と、まだまだ負けるわけにはいかない6年生の「意地(プライド)」が火花を散らす…そんなイメージを持っていました。
しかしそれは本当に私の「勝手な思い込み」であって、実際の遊びは5-1と6-1は「折り返しリレー遊び」と、5-2と6-2が「だるまさんが転んだ」でした。


正直、「高学年が『だるまさんが転んだ』って、どうなのよ?」と思いましが、これがまあ、盛り上がる盛り上がる!「折り返しリレー」も同じく、みんな応援し合って、全力で走る子どもたちの姿…。
自分の勝手なイメージやフレームで、子どもたちの活動を見ようとしていた自分が恥ずかしくなりました。一番大事なのは、何をするかではなくて、「みんなで楽しもう!」とする『気持ち』であって、結果としてみんなが『楽しめる』ことです。子どもたちが自分たちの力で、そんな『雰囲気』をつくって、5,6年生が目いっぱい「楽しめている」この状況を、もっとほめて(認めて)あげないといけないなと思いました。
反対に、今の北小の「課題」みたいなものも見えてきました。ビデオメッセージの中でも、「なかよし遊び」の中でも、相手に伝わるように「話す(伝える)」場面や、みんなに理解してもらうためにルール等について「話す(説明する)」場面がたくさんあるのですが、この「相手意識をもって話す」ということについては、本校の弱みであり、課題だなと感じました。
伝える相手がいるのだから、主語は「相手」であって、「相手が理解する」、「相手が○○のように感じてくれる」と言うのが「話す」ことの目的なのですが、多くの子どもたちの「話す」は、「自分が話す」ことで精一杯になっていて、「相手に届く」かどうかまで意識できていないように感じます。「声が小さくて聞こえない」、「早口すぎて、何を言っているか分からない」、「話す内容が整理されないまま話していて、要領を得ない」…そんな状況でもお構いなしです。「自分は話した」という事実だけで、そこに「相手意識」はありません。それは、子どもたち主体の他の行事や、放送委員会等の放送の中でも一緒で、「相手意識」の弱さを感じます。「話すこと」に自信が持てない子どもたちの姿があります。
改まった場や、大勢の前で「話す」ことは、大人でも緊張しますし、うまく話せないことが多いことは確かです。子どもたちにしっかりと「相手意識」をもって「きちんと話す(伝える)」力をつけるためには、6年間の系統的な「積み上げ」も必要ですし、話す「場数」も必要だと思います。
もう一つ、我々学校の教師が反省しないといけないのは、「教師が話し過ぎていないか」と言うことです。教師が話しすぎて、子どもたちの「話す機会」、「話す練習」を奪ってしまっているのではないかということです。授業中でもよくある場面です。子どもたちに「話させるべきところ」を、教師がサポートのつもりで代弁してしまっている…。これが続くと、子どもたちの中で、「最後まで話しきれなくても、先生が助けて(代弁して)くれる…。」という感覚が普通になり、自らの「話す」を高めようとしなくなっているのではないかと…。子どもたちの「話す力」の向上の課題は、我々(学校・大人)の方に多くの原因があるのかもしれません。