今日は、朝からとんでもない天気になりました。台風並みの強風と横殴りの雨が子どもたちに襲いかかりました。ほとんどの子どもたちがずぶぬれになって登校してきました。校門は「子どもたちの通り道」であるとともに、「風の通り道」です。すさまじい強風にさらされます。今朝は「おはようございます。」をいう間もなく、「校門の近くで傘を閉じて!さもないと傘がぶっ壊れるから。」と声をかけ続けました。かわいそうに何人もの子の傘がぶっ壊れました。一緒に立っていてくれるH先生の傘は早々とぶっ壊れ、ずぶぬれになりながら安全立哨をしていてくれました。
昇降口の中であいさつ運動をしていてくれるベテランK先生と中堅K先生に、「至急、各教室のストーブをつけて回って!子どもたちが風邪をひいてしまうから!」と頼むと、二人ともさっと動いてすべての教室のストーブをつけて回ってくれました。北小の先生たちは、みんなこんな先生たちです。子どもたちを大事に思い、どんどん動いてくれます。いつもいつも感謝、感謝です。
さて、話は変わりますが、3学期の図工と言えば、どの学年でも「版画」に取り組みます。「版画」には、「版をつくる」ことと「版を写す」ことの2つの活動があります。つまり「彫る・貼る」ことと「刷る」ことを楽しむのがメインですから、絵柄(図柄)自体にそこまでオリジナリティは求めていません。だから絵本や百人一首、写真なんかを「模写」したり「トレース(写す)」したりすることもあります。ここで活躍するのが令和の学校の必須アイテム「タブレット端末」です。図鑑や写真をネットから引っ張り出したり、自画像をカメラで撮ったりして、それを見ながら絵柄(図柄)を描くことができます。


これは、4年生の作品ですが、「モチモチの木」や「花さき山」の絵本の世界を、上手に版画にしました。白黒版画は黒:白の割合が、6:4~7:3くらいが一番バランスよく、美しく落ち着いて見えます。初めて彫刻刀を使い、それぞれの彫刻刀の彫の特徴を感じながら、丁寧に仕上げた作品です。とても素敵な作品に仕上がっています。
5年生も今「木版画」に取り組んでいます。テーマは「○○している自分」でしょうか。○○している自分をタブレットで写真に撮り、それを見ながら版の絵柄を描いたようです。いわば「写真を写す」という作業になりますが、版画の場合は、線を単純化(簡略化)する必要があるので、写真の中の「どの線を活かすのか」を考えながら絵柄を完成させます。彫刻刀で彫るのは2回目(2年目)ですので、顔や腕の丸みや、服の質感なんかが出るように、彫り方や彫る方向に気をつけて彫り進めていきます。


気をつけなければならないのは、「写真を撮る」ことで絵柄を決めるということになると、どうしても「画面にこれも入れよう、あれも入れよう。」と欲張ったり、「体全体を入れこもう」としたりして、結局、被写体(主役の自分)が小さくなってしまうこと。自分が小さくなるほど、彫りにくくなります。顔の表情や腕、指先が大きく描けるように、画角を考えたり、トリミングをしたりしなければなりません。「写真」ではなく、「実物」を見ながら描くと、描きたいところが勝手にデフォルメ(強調・誇張)され、自然と「絵の主役」が大きく、はっきりと描かれるのですが、「写真を写す」という描き方ではそうはなりません。どうしても「説明的な絵」になり、作者の「思いや感情」は絵の中に入ってこなくなります。
私(校長)は、正直悩みます。今はマストアイテムとなったタブレット端末を活用した「写真を写す」というような絵の描き方、つまり「2次元→2次元」の描き方は、果たして学校教育としての「図画(絵を描く)」として成立するのか…。昔のように「図工」の時間はたくさんとれませんし、少ない時間で効率的に「絵を描く」と言う意味では効果絶大です。絵の上手い下手に関わらず、そこそこの絵が描けて、どの子も「描くことが楽しくなる(苦でなくなる)」という効果もあるかもしれません。


確かにタブレットを使うと、詳しく描きたいところは大きく画面をズームして、しっかり見て描けますし、中学年くらいだと写実的に描こうと思っても、子どもらしくあちこちデフォルメされますから、それなりに楽しい絵になっています。何よりも、子どもたちが自信をもって描き進めている感じがします。そんな子どもたちの様子を見ていると、令和の図工には、「タブレット写生」もありかな…と思ったりします。
しかしやっぱり「2次元→2次元」で描く絵と、実物を見て描く「3次元→2次元」の描き方では、根本が違う気がしてなりません。「3次元の世界」を無理やり「2次元の画用紙」に押し込むという作業があって初めて、子どもたちの「感動や感性」を絵の中に入れ込めるような気がします。子どもの絵ならではの、「ゆがみ」や「誇張」、いい意味での「いい加減さ」こそが、子どもの絵の値打ちのような気がして…。正直、明確な結論が出ないままもやもやしている私がいます。