今日は、4年生のG先生が国語の研究授業を公開してくれました。単元(題材)は「ひとつの花」。昔から教科書にある物語教材です。
だれでも小学校の時の「物語教材」は、大人になっても、印象深くずっと心に残っているものです。人によって好みは違うと思いますが、「ごんぎつね」とか「スイミー」とか…昭和世代なら、「スーホの白い馬」とか「石うすの歌」なんかも忘れない物語です。
今回の「ひとつの花」も昔からある教材で、戦時下での家族の愛情や願いを描いた作品です。簡単にあらすじを紹介すると、
…幼い少女・ゆみ子の口癖は「ひとつだけちょうだい」でした。戦争が激しい時代で、食料不足であり、ゆみ子の両親は育ち盛りの彼女にお腹いっぱい食べさせたくても食べさせてあげる事ができず、いつも「一つだけよ。」と言って聞かせていました。いつしか「ひとつだけちょうだい。」がゆみ子の口癖となり、「ひとつだけちょうだい。」と言えば、何でももらえると思っているのでした。
そんなある日、ゆみ子の父にも召集令状が来て出征することになりました。出征の日、見送りに来たお母さんとゆみ子。ゆみ子はお父さんのカバンの中にはおにぎりが入っていることを知っていました。それはお母さんが出征するお父さんのために家に残っていた貴重なお米で作ったおにぎりだったのですが、ゆみ子のいつもの「ひとつだけちょうだい。」が始まるのでした。ゆみ子はおにぎりを一つ食べた後も、何度も「一つだけ。一つだけ。」とねだり、とうとうお父さんのおにぎりを全部食べてしまいました。ゆみ子はその後もおにぎりを「ひとつちょうだい」とねだりますが、もう彼女にあげるおにぎりはありません。ゆみ子は機嫌を損ねて泣き出します。
困ったお父さんは周囲を見渡し、ホームの端に忘れ去られたように咲いた一輪のコスモスの花を摘んでゆみ子に渡しました。「さあ、一つだけあげよう。一つのお花、大切にするんだよう…。」と言ってお父さんは汽車に乗って出征するのでした。
10年後、お母さんと2人暮らしのゆみ子は成長して家の手伝いをするしっかり者の女の子になっていました。今日も元気におつかいに出かけるゆみ子の姿がありました。彼女が暮らす家の庭にはコスモスの花がたくさん咲いていました。
子どもたちはそれぞれに学習課題をもって、物語の叙述(言葉)から登場人物の心情を読み取っていきます。例えば、「お父さんはなぜ、一輪のコスモスをゆみ子に手渡したんだろうか。」という課題に対して、お父さんの気持ちがわかる(気持ちを表す)を文章の叙述から抜き出し、その心情について自分でまとめていきます。プリント(ワークシート)に自分の考えが書けたら、それをタブレットで撮影し、タブレットの共有アプリ「Padlet」を使って、それぞれのプリントを閲覧できるようにします。子どもたちは、自分と同じ課題に取り組んでいる友だちのプリントをタブレットで見ながら、自分の考えやその根拠になる叙述などについて、比較したり、参考にしたりしながら、さらに考えを深めていきます。
「自分で学習課題を選択して、いろんな情報を手掛かりにしながら、自分で解決していく」という『個別最適な学習』と実際にグループや全体で考えを交流したり、一緒に考えたりする『協働的な学習』の二つの学習を、子どもたちは自由に行ったり来たりしながら学習を進めていました。
今、求められている授業像は「子どもたちが主体的に、夢中になって課題に向かう授業」です。そのために「個別最適な学習と協働的な学習が一体化した授業」や「ICTを有効的に活用する授業」について研究を進めています。そういう意味において、今日のG先生の研究授業はよく考えられた授業で、子どもたちは主体的に学習に向かっていたと思います。私(校長)はICTがとても苦手なので、タブレットPCをささっと使いこなす若い先生たち(気の若い先生たちも含む)や子どもたち自身に置いてきぼりを食っていますが、学習のスタイルは明らかに変わってきているなと感じています。
「さあ、一つだけあげよう。一つのお花、大切にするんだよう…。」の言葉を最後に、お父さんは出征し、そのまま帰らぬ人となります。『ひとつだけあげよう』、『大切にするんだよ…』という言葉の意味、そしてお父さんの思いを、子どもたちはどのように考えてくれるでしょう…。
戦争にまつわる物語教材は、文章だけでなく、当時の状況や生活についてもきちんと理解しないと、登場人物の思いや、作者の意図(主題)に迫り切れません。
石垣りんの詩「弔辞」の中でおっしゃっている言葉、
『戦争の記憶が遠ざかるとき 戦争がまた 私たちに近づく』が再び頭をよぎります。「ひとつの花」は、国語の学習ではあるのですが、とてもとても大切な「平和学習」でもあると思います。
「かわいそうな象」、「ちいちゃんのかげおくり」、「ひとつの花」、「石うすの歌」などなど・・・改めてじっくり読んでみたくなりました。